先日、上野精養軒でカルテットの演奏をしてきました。

書教展の祝賀会と支部長交流会。書道の先生方が沢山おられる会での演奏でした。先生方のご挨拶の中で、演奏、特に生演奏は音楽に心を奪われて感動する、音楽は良いなぁとおっしゃっていただいて、とても嬉しい気持ちでお話を聞いていたのですが、それに続いて、書は難しいけれども、見た瞬間に心を奪ってしまうような作品を目指して作り続けているというようなお話があり、色々と考えさせられました。今回は音楽をパーティーの時のBGMとしてではなく、演奏会のような時間が設けられていてしっかり耳を澄ませて聴いていただけて嬉しかったのでした。

最近は目の前の演奏のお仕事に追われ、心にゆとりが減っていたかもしれません。芸術について深く考える時間は至高の時間ですよね。そういう時間こそ大切にしなくては。古き良き精養軒で癒され、今回は書教展のイベントという事で、昔(高校生の頃)に私は雪舟がとても好きだった事を思い出していたのでした。
雪舟(せっしゅう)応永27年(1420年)〜永正3年(1506年)諸説あり。

それこそ高校生の頃に、上野の東京国立博物館で雪舟没後500年の展覧会があって生雪舟に完全に心奪われてしまった夏秋少年は、特別展の図録を買ってずっと眺めていたのでした。
500年以上も前に作られた作品、その本物が目の前にあり、(まさに、雪舟がこの紙に触りながら描いたものなんだ…!)目が奪われ、心が奪われ、あれこれ妄想するという、この体験が今後の自分の方向を決めたのではないか?と言っても過言ではないくらい影響されたのでした。本物を感じるという尊さに気付き、国の歴史やその場所の歴史、時間の流れ、今も昔も本気で表現しようとしている人がいるという事など色々と感じました。時間芸術と空間芸術について考えさせられたのもこの時です。中学を卒業し、藝高では周りの仲間の凄まじい才能におじけづいてクラクラしていた時に、とどめの一撃のような衝撃でした。
1番の影響は、もう音楽を辞めてしまおうか悩んでいた自分を、どこまで行けるかは分からないけども、辞めずに続けていけば、自分なりの高みの世界は見れるのではないか、それがあわよくば周りの凄い仲間達が見ている世界だったらいいな、このように考えて続ける事を決心した事です。
音が出た次の瞬間には空気に溶けて消えていく時間芸術と後世に残る絵画や書。楽譜は残るかもしれないけども、500年前の生演奏は聴けない。だけども絵や書から当時の雰囲気を感じる事ができる。500年前であれ現在であれ、絵や音に一生を捧げている人がいるんだよなぁと。空間芸術からは本当に、沢山の人の生きた証やそれらが積み重なって今があるんだという歴史の面白さを感じます。石像とかもやばいです。後世に残っているモノは相当な覚悟で残そうとした人がいて、絶やさずに繋ごうとした人がいて、やっと残っている御守りみたいなモノだと感じます。ある意味では建物やその土地や言語、暦なんかも同じだと思います。木も大好きな私ですが、その土地の岩(海岸の断崖とか)なんかは、下手すると彼らは縄文時代を知ってるのかもしれないなどと妄想して偉大さにやられるのでした。本物すぎる。御守りにはパワーがあります。。何が宿っているのでしょうか…。今の積み重ねが宿っているのだと感じます。
時間芸術の凄いところは、今という瞬間を感じられる事。一度始まってしまったらもう戻れない儚さゆえの緊張感から生まれる今という瞬間。今っていつ?結構難しい問題ですよね。私は時間の流れは人それぞれ、物や動物それぞれ、全部違うと思っているので、そんないろんな時間の流れを持ったモノ同士が、音楽を通じて、今という時間を一斉に感じる事が出来る、ある意味では繋ぐ事ができる、ここが時間芸術の凄いところだと思ってます。個々のいろんな時間の流れが、1つに集まる瞬間。その時の今というモノ。場所や空間、人や天気、空気感、全てが紐付いた今という瞬間の尊さ。過去も未来も入り込んでくる今。時間は進んでいるのか後退しているのか、そもそも時間って何なのかいまいちよく分からないし、進む方向があるモノなのか、ただそこにあるだけなのか、考えれば考えるほどよく分からないけれども、今という瞬間だけは感じる事ができる…気がする。
記憶(心)に残るような濃い今を。を。


